琵琶楽の流れ / 琵琶楽の歴史 1(従来説)

 『日本琵琶楽大系』CD復刻版・解説書より。執筆=田辺尚雄 初代当協会会長(P.20〜23)

 

➀ 琵琶の歴史

(P.20)


 わが国の琵琶には二つの異なった系統がある。その第一は柱が小さく且つ低く、奏者は弦がやゝ水平になるように持ち、左手指は柱の上を押え、右手は比較的徐やかに弾ずるもので、雅楽の琵琶はこれに属する。第二は柱がやや大きく且つ高く、奏者は弦を立てるように持ち、左手首は柱と柱との中間を押え、その圧力の変化によって音高の変化を生ぜしめ、右手は比較的細かく弾ずるもので、薩摩琵琶や筑前琵琶はこれに属する。平家琵琶もこの系統に属するが、琵琶の手は甚だ少ない。

◆琵琶の起源と第1の系統

 琵琶は古代のペルシァ(イラン)に起り、バルバット(Barbat)と称した。それが紀元前二世紀の中頃に西域を通って中国(漢)に伝わり、中国ではそれを漢琵琶と称した。それが管弦合奏の中に取り入れられて、奈良朝の初め頃わが国に伝わり、雅楽の管弦の一員として用いられて今日に至っている。これを「楽琵琶」と呼ぶ。この種のものは楽器の上端(頸部)が後方へ直角に折れ曲がっているので曲頸琵琶とも言う。

◆第2の系統

 古代ペルシァ(イラン)に起ったバルバット(琵琶)は紀元後二世紀頃にインドに伝わり、インド古来の弦楽器ヴィナ(Vina)と融合して、インド琵琶となり、一方には七世紀頃、中央アジアの亀茲(Kutcha)を経て中国に伝わったのが、中国では亀茲琵琶とも称した。現在中国に於いて用いられる琵琶はそれが明代に於いて改造されたもので、細い棒状のフレットを沢山つけている。この種のものは楽器の上端(頸部)がやゝ直立しているので直頸琵琶とも言う。

 尚。他方に於いてインド琵琶は盲僧によって中国を経て奈良朝時代にわが九州に伝来した。これを盲僧琵琶と呼ぶ。平家琵琶、薩摩琵琶及び筑前琵琶はその流れを汲むもので、わが国では楽器の外形を楽琵琶に象り、曲頸琵琶として用いているが、その奏法は全く第2の系統に属する。                  

◆正倉院の琵琶

 奈良の正倉院の北倉には曲頸の唐琵琶と直頸の五弦琵琶とがある。いずれも当時中国から伝来したもので、よくこの2系統を示している。(⇒正倉院の琵琶)

➁ わが国の琵琶楽の歴史

(P.21〜23)


◆ 楽 琵 琶

 奈良朝の直前に中国から伝来し、雅楽の管弦合奏中の一員として用いられる他に、平安朝初期(第九世紀中頃)わが遣唐留学生藤原貞敏が中国から伝えた「流泉」「啄木」「楊真藻」などの独奏曲があって、平安朝末まで名手によって伝えられていたが、当時これを秘曲として伝授を惜しんだため、鎌倉時代以後は全く亡佚してしまった。今では楽琵琶は雅楽の管弦の一員としてのみ行われている。

◆ 盲 僧 琵 琶

 仏教伝説には釈迦がその高弟巌窟尊者の盲目を憐れんで琵琶を与え、地神経を琵琶の伴奏によって読誦することを授けたといわれている。これが中国を経てわが九州に伝来した。その時期は明らかでない。わが国の伝説には欽明天皇の時とあるが、それは信じがたい。恐らく奈良朝であろうと思われる。奈良朝の末から平安朝初期にかけて、筑前博多に盲目の名僧玄清が出て筑前盲僧の基を開いた。当時その門弟満正院が京都に移り、天台宗に属して(これを天台仏説宗という)鎌倉時代初めまで、京都盲僧の伝統を保持していた。その第19代宝山検校が源頼朝の命により島津忠久に従って薩摩に移ったので、爾後薩摩盲僧の系統となり、代々島津藩公の厚い保護の下に明治維新まで継続し、第44代伊集院俊徳に至って盲僧の廃止と共に一時断絶したが、後にその再興が許され、現在薩摩盲僧は第46代樗木教真氏が、鹿児島県伊作の常楽院に於いてその統を護っている。

 いっぽう筑前盲僧は近代に至って保護者を失い、各地に散在して僅かに求めに応じて地神経や観音経を読誦し、土荒神の法を修めて竈払いをなす(之を荒神琵琶という)ほか、滑稽な物語などを演じて(之を滑稽琵琶という)その生計を維持していた。現在に於いては、筑前盲僧は九州北部の各地に若干存在しているが、之に反して薩摩盲僧ではほとんどその琵琶楽が衰滅に瀕している状態にある。

◆ 平 家 琵 琶

 鎌倉時代初頭、京都に於いて起ったものであるが、普通には雅楽の名手で藤原行長が事によって遁世し、天台宗管長慈鎮和尚の勧めによって平家物語を作り、盲僧生仏がこれを音楽化して語り出したのに起るといわれている。しかし元来盲人によって語り出されたものであるから、その文句の変化も著しく、従って平家物語には異本が多い。生仏より再伝して如一、城玄の2名手があり、如一は都方流を、城玄は八

坂流を開いた。しかし如一の高弟の覚一は足利尊氏の近親であったので、検校の重職を与えられて明石検校となり、爾後平家を語る盲人を職屋敷の官制の統轄下に置き、検校、勾当、座頭等の官職に補した。その後多少の消長はあったが、室町時代末の戦乱の時代でも武将等は、平家琵琶を愛好し、かくて江戸時代初期に京都に於いては波多野検校によって波多野流が起こり江戸では前田検校によって前田流が起こり、両者それぞれ相伝えて明治に至ったが、明治以後は急速に衰徴の一途を辿り、昭和に至って波多野流は京都の山上忠麿氏唯一人を残すのみとなった。前田流は、仙台の館山甲午氏と、名古屋の井野川検校一派によって僅かにその面影が残されているのみである。                         

◆ 薩 摩 琵 琶

 室町時代の末(第十六世紀後半)各地に内乱相次いだ時、薩摩藩では名君島津忠良(日新斎と号す)出

でて「武蔵野」「迷悟擬」「花の香」等の教訓歌を作り、盲僧第31代淵脇寿長院をして作曲せしめたのが

薩摩琵琶の起源である。この時寿長院は従来の盲僧琵琶を改造して今日の薩摩琵琶の体制(後述)を作り

上げた。その後島津家には名君相次いで出てまた盲僧にも名手多く、琵琶歌の保護奨励に力を尽くしたので――但し、これは藩命によって薩摩武士の間だけに弾奏を許した――江戸時代を通じて発展を続け、特に優麗な技巧を用いるものを町風と名づけ、それに対して質実剛壮を旨とするものを士風と呼んだ。江戸時代中期に大隅に池田甚兵衛という名手が出て、士風町風両者の特色を採って新技巧を編み出し、幕末にはその流れを汲む名手妙寿が出て益々その技巧が発達した。今日行われている薩摩琵琶の名手達は、多くは妙寿の楽風を継ぐものである。

 明治維新以後薩摩の名士が多く東京に出て活躍したが、その中には琵琶をよくするものが多く、ことに西幸吉、吉水錦翁、児玉天南らはその妙技を以て世に知られ、ここに薩摩琵琶という名称を以って世に広まるに至った。明治の後半に至り吉水錦翁の門から天才永田錦心(本名武雄、東京の人)が出、広く邦楽の長所を採り入れて艶麗な技巧を編み出した。これを特に錦心流と称し、大正から昭和にかけてその門流全国に満つるに至った。これに対して在来の薩摩琵琶を正派と呼んで区別するようになり、現在では薩摩琵琶界は正派と錦心流とが互いに相対立する状態にある。

◆ 筑 前 琵 琶

 薩摩盲僧が、歴代藩主島津家の厚い保護の下に発達を続け遂に今より400年以前に薩摩琵琶を生み出したのに反し、筑前盲僧はほとんど野放しの状態に置かれ、生計に苦しみ辛うじてその存在を続けるという哀れな状態の下に明治維新を迎え、盲僧制度が廃止されてから、筑前博多の旧盲僧の家柄から出た橘智定(号旭翁)は、明治20年頃薩摩琵琶が天下に普く知られ全盛を誇っていたのに感激し、自ら鹿児島にわたり、その琵琶楽を研究して帰郷し、工夫を加えて一種の琵琶楽を編み出した。そのころ博多の吉田竹子は初め橘旭翁に琵琶を学び、後転じて別派の盲僧家系に属する鶴崎賢定と相計り、自ら三味線音楽をよくしたので、その手法を取り入れて明治26年頃同じく一流の琵琶楽を生み出した。かように筑前博多に於いて橘旭翁、吉田竹子、鶴崎賢定等によって明治中期に新しく発生した琵琶楽を総称して筑前琵琶と呼ぶ。その中でことに橘旭翁は東京に進出し、大日本旭会を設立し、そこを中心として全国に普及せしめることに努力したので、明治末期から大正に及んで筑前琵琶(橘流)は全国に普及し、遂に数百年の伝統を持つ薩摩琵琶と相対抗して、わが琵琶楽界を二分するの勢力を獲得するに至った。これに対して吉田流及び鶴崎流は僅かに博多地方にその根拠をもつのみであるが、吉田流から出た高峰筑風は一時高峰琵琶と名付けて世に行われたものの、昭和11年同氏の死と共にその流派もほとんど影をひそめた。

 初代橘旭翁の後はその子一定が二代旭翁を継ぎ、またその弟知定が橘旭宗と呼んで、両者共に作曲及び演奏の名手であったので、筑前琵琶は益々世に盛行するに至った。初め筑前琵琶は四弦の小型の琵琶を用いたが、後大型の五弦琵琶を工夫し、目下は四弦よりも五弦の方が世に多く行われている。二代旭翁は昭和20年に逝き、その子定友が継いで三代旭翁となり、今日に至った。旭宗は大正9年橘会を組織し、互いに対立するに至ったが、旭会・橘会共に会員はすこぶる多く、全国に普及している。筑前琵琶には婦人の弾奏家゚甚だ多く、薩摩琵琶が男子を中心とするのに対して面白い対照を示している。

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